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 01 本当に怖い時は・・・・ 01/06/02  
 教室で授業をしていると、まれに外の天気が雷をともなった大雨になることがある。時には、あまりの降りのひどさに、授業を中断して、しばし見物となる場合もある。
 ところが、雷がひどくなると、女生徒がキャーキャーと悲鳴を上げ、教室中騒然となる。授業時間に余裕がある時は、太宰府に左遷された菅原道真が、あとで雷になって藤原氏に祟った話などもできるが、そうそう長くも話せない。「静かにしなさい」と怒って授業を続けるのも大人げない。

 そういう時は、「女性の悲鳴の真実性」(副題 本当に怖い時は・・・)について、しばし話をする。
 
昔、彼女とつきあい始めたころ、「私、動物が嫌いなの」とか言って、歩いていて犬がいたりすると、「キャー」とか可愛い声を出して、僕にすがりついてきた。男としては、「僕が守ってあげる」という名場面ができて、まあ幸せを感じるところであった。
>
 ある時、ばかでかいドーベルマンと出くわした。これは本当に怖そうな犬で、ペニスもでかくて、存在全体が威嚇的だった。そいつは、鎖にはつながれてはいるものの、鎖の長さに余裕があって、目があったらまずいという状況だった。

 「おいおい、こんなやつを道路のそばに置いとくなよ」と飼い主を呪いながら、半分以上びびって、一応彼女をかばいながら難を逃れた。
 無事に通過したあと、ふと気が付いた。あれ、彼女は「キャー」とも何とも言わなかったぞ。
 顔を見ると、脂汗をかいている。
 
 「怖かったナー、ところで、何で悲鳴をあげなかったの。」
 「本当に怖かったから。」

 教師になって狭い盆地にある高校に勤務することがあった。山のあいの土地なので、平野の真ん中よりは、気候の変化にかなり激しいものがあった。
 学校には寮があって、何人かの教員が当番で寮の監督係(舎監と呼んでいた)をすることになっていた。1階は男子の部屋、2階は女子の部屋、舎監室は2階の階段を上がったところにあった。男子も女子も1室に4名ほどが暮らす仕組みである。

 舎監室は女子の部屋と同じ階にあるので、話に花が満開の女子高校生のこと、舎監の重要な任務のひとつは、女子のおしゃべりを沈静化させて睡眠時間を確保することであった。

 ある初夏の真夜中、本当にすごい雷鳴がとどろいた。ピカッ光って、音が聞こえるまで「331+0.6×t」とか悠長な話ではない。光と音が同時という直上の雷で、しかも古い寮の建物は振動までも加わるというものすごいものであった。
 しかも盆地という地理的要因が、さらに雷鳴の威力を高め、布団の中にいると、「まるで谷中が雷様の中にある」という感じだった。

 男の私でも、怖いというかべきか、あまりに異常な体験過ぎて興奮するというか、明け方に雷がおさまるまで、まんじりともできないで過ごした。
 その間中、いつもかまびすしい女生徒たちはというと、声も聞こえないし、廊下を歩く様でもない、ただひたすら静かだった。布団の中で耐えていた私は、「ひょっとして地元のあの子たちにはこういう経験はしょっちゅうあって、別に何ともなくて寝ているのかもしれない」と考えた。

 雨は朝までには上がった。
 何事もなかったかのような静かな朝となり、寮の食堂でいつものように朝食となった。
 ひょっとしてと思ってみんなに聞いてみた。
 「夜中の雷すごかったな、みんな寝とった?」
 「先生、怖くて怖くて眠られんかった」
 「しかし、悲鳴も何も聞こえんかったぞ」
 「本当に怖かったから、声も出せなんだ」

 世の男性諸君。
 もし、彼女とジェットコースターに乗って、彼女が声も出せずにふるえていたら、次からは乗せない方がいい。
 「ワー、キャー」と悲鳴を上げていたら、 守ってやるふりをしてあげなさい。

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 02 本当に怖い時は・・・・その2 01/06/03 
 僕はいつのころからか乗り物酔いに悩まされるようになった。

 船・バスはもちろん、遊園地のティーカップ、バイキングの船などなどいずれも苦い経験を持っている。
 遠足で生徒を連れて遊園地に行って、バイキングにやられて、ずっと寝ていたこともあった。
 生徒の宿泊研修でバスで乗鞍岳に行かなければならなかった時は、くねくね曲がるスカイラインの山道でのバス酔いに備えて、強力なアンプルの酔い止めを飲んだ。ところが、あまりに薬が効き過ぎて、研修2日目の昼までふらふらしていたという失敗もあった。
 昨年のアメリカ家族旅行では、グランドキャニオン空中遊覧の小型飛行機の中で、エチケット袋をもって、ゲロ寸前の状況だった。
 
 つまり、僕は、耳の中の三半規管と前庭の調節機能が弱く、加速度への順応性がきわめて悪い生き物なのである。最近のテレビの体力ゲームの中に出てくる、バットを地面と頭に付けてぐるぐると3回まわって歩くなどと言う暴挙をしようものなら、それから丸一日布団の中にいなければならない。

 しかし、そういう経験と照らし合わせてみて、あのとき乗り物酔いにならなかったのは、やはりすごかったという経験がある。
 ある年の夏休み、自衛隊のイベントで、防衛大学や防衛医科大学やその他の基地施設などを見学するツアーに招待された。3年生の生徒の進路指導の参考になればというイベントである。
 名古屋空港から、自衛隊の神奈川県厚木基地まで、海上自衛隊の基地間連絡の定期便に乗せてもらうことになった。定期便といってもジェット機ではなく、今となっては懐かしい日本製の名機YS11を改造した輸送機だった。
 YS11には新婚旅行の時北海道(女満別-千歳)で乗ったことがあり、小さい飛行機とはいえ「大丈夫」と思っていた。
 
 ところが、その日は事情が違っていた。
 関東沖に低気圧があり、雨が降っているばかりか、気圧の変化が激しいという悪条件だった。本来なら欠航になるところ、我々イベント参加者を運ぶという使命があったので、予定を少し遅らせて、YS11は離陸を強行した。
 機内は旅客機とは違い、映画で見た爆撃機のような、機体の骨組みが丸見えのなかなか勇ましい状態で、操縦室も扉で隔離されておらず、客席から丸見えであった。僕は、操縦席の様子が見たくて、最前列の席に座って、これもまた無骨なシートベルトを締めた。
 静岡県西部上空のあたりから、低気圧の影響がもろに出始めた。
 わがYS11は、強い風の中、懸命に勇敢にエンジンを吹かし、何かの拍子で下降気流入って、何十か何百メートルか分からないが、何秒間もの長い間、すーと「落ちる」というのを繰り返した。体で感じる状況では、長〜い下りエレベーターに乗っている感じである。
 これは、正直怖かった。
 同乗者の中で、われらのツアーの案内役をしている陸上自衛隊係員(もちろん飛行機は不慣れ)が、真っ先に顔色を青くさせはじめたのは滑稽だった。

 はっきりいって、怖い。
 すーとこのまま落ちたらもうだめ、という感じが10分、15分と永遠とも思われる長さで続く。
 不安な状況に決定的を悪化させたのは、すぐ前のコックピットにいる操縦士の間で交わされた言葉。
 前述のように、僕は、彼らの言葉が聞こえる最前列にいたので、彼らの率直な感想が聞こえてしまった。
 YS11が思いっきり降下した時、
副操縦士「キャプテンいまのはすごかったですね?」
操縦士「おー、本当にすごかった。ちょっと経験したことがないやつだったな。」

 機長ー、後ろで民間人が聞いているのだから、やせがまんでもいいから、「なあに、大丈夫」とかいってほしかったなー。
 その前の年、御巣鷹山で日本航空123便のジャンボ機が落ちた話を思い出し、バラバラになってもよいように、手足にマジックで名前を書こうかと馬鹿なことを悩みつつ、無事に着くことを祈った。落下する飛行機の中で、無意味でも手足を踏ん張りつつ、ひたすら祈った。

 揺られて落ちておよそ2時間。もちろん予定より大幅に遅れて、厚木基地に無事着陸。
 物理的な体験からすれば、僕の加速度調整能力では、へろへろに飛行機酔いになっているはずなのに、この時は何ともなし。
 怖くて足を踏ん張ったので、筋肉は非常に疲れていたけど、気分は本当に何ともなし。

 人間、本当に怖いと、飛行機酔いなんぞになっているヒマはないという事実がわかった。
 この経験に比べれば、遊園地のどんな絶叫マシーンも目じゃない。
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 03 酒が飲めない男の独り言・・・・ 01/06/03 

 僕はあまり酒が飲めない。あまりという曖昧な言い方ができる理由は、下の図に示すように、全く飲めないわけではないが、ちょっと飲めばすぐに「もう勘弁してくれ」となるからである。

 大学生になって、コンパなどで酒を本格的に飲み始めた時は、「酒に対する強弱が遺伝の作用による」、という真理を知らなかったため、「訓練すればたくさん飲める」という先輩の言葉を信じて、無理して飲んだ。
 そのため、あちこちの道路にゲロをはいた。一度学生には手が届かない「ふぐ料理」をごちそうになった時も、無念にもそれをゲロしてしまい、はきながら、「もったいねー」と悔しがったことを覚えている。
 という話をすると、世の酒飲み諸氏は、「どんだけ飲んだんじゃ」といぶかしがるかもしれないが、もともとアセトアルデヒド分解酵素ALDH2の不活性型を持つ身、ビールなら大瓶1本、日本酒なら1合を越えれば、頭が割れんばかりの頭痛・動悸・吐き気が襲ってきて、体が毒気を排出しようと、ゲロになるのである。

 我が父や妻はもっと飲めないので、日本人の「酒が飲める飲めない・強い弱いの数直線」上に自分を表せば、上図の★の位置ぐらいであろう。
 家では酒は飲まないし、宴会でも、ビールの最初のコップ1杯目・2杯目は、清涼飲料としてうまいが、3杯目からは、もはや「毒」以外の何物でもない。
 全く飲めない人より少しはましという言い方もできるが、少し飲めるだけに、宴会の時に自分の立場を説明するのは、かえって難しい。
 ビールを1・2杯を、清涼飲料としてうまそうに飲んだ割には、3杯目からは、注ぎに来る酒飲みに、相手の気分を害さないようにお断りをしなければならないからである。若いころは、「てめー、何で俺の酒が飲めんのじゃ」という怖い先輩もいて、就職してからも、いくどか道路を汚した。
 最近は、歳もとって職場の中で地位が上がったおかげで「拒否権」が気楽に使えることと、「遺伝子による酒の弱い人」について、完全理論武装を完了したことから、ほとんどゲロしなくてもよくなった。

 しかし、この世は、酒が飲める人が多数派で、飲めないものはマイノリティーである。上の図では、飲めるは50%となっているが、実際は、少し飲める人の中にも、「訓練」や、その人の嗜好によって、酒が飲める状態になっている人が10%以上いる。したがって、宴会の席では、酒が飲めないものは、およそ3分の1という計算になる。
 酒飲み諸氏は、僕たちが酒のおいしさが分からないのと同じように、あたりまえだが、酒の飲めない人の気持ちはわからない。酒飲み多数派が多い社会で我々が味わう悲哀はいくつかある。

  1. 自分は時々ゲロして迷惑かけたが、ぐでんぐでんに酔っぱらって、とんでもないことになっている大天狗を介抱した回数の方が、桁違いに多い。

  2. 飲めない派は、どんなに頭痛で苦しんでいても、どんなにゲロしていても、酔っぱらってはいない。したがって、その晩起こったことは、全て覚えている。酒飲み諸氏は、「一杯飲んで腹を割って話そう」とかいいながら、その晩の話は、ある時点から記憶していない。こんなご都合主義は、うらやましいことこの上ない。

  3. よくテレビ・映画・小説で、苦しい時の「やけ酒」という発想があるが、我々飲めない派は、決して酒でつらさを紛らわすなんて発想はない。じっと我慢して、精神をとぎすまして、次ぎに良い日が来るのを待つのである。

  4. 晩酌をしないので、食事に長い時間をかける習慣がない。酒の肴という料理のジャンルがない。そして、多くの場合、食通の諸氏は、酒飲める派ではないだろうか。

  5. 以前の職場では、トップ以下部長クラスの人々が、皆酒に強い派ということがあった。こうなると、我らマイノリティーは、昼間でも気苦労が耐えないことになる。

 いろいろ言ってもきりがない。
 ALK(アルコール薬物問題全国市民協会)のサイトには、アル・ハラ、アルコール・ハラスメント追放キャンペーンが展開されている。それによると、以下の行為は、アル・ハラなのだ。

飲酒の強要

上下関係・部の伝統・集団によるはやしたてなどといった形で心理的な圧力をかけ、飲まざるをえない状況に追い込むこと。

イッキ飲ませ

場を盛り上げるために、イッキ飲みや早飲み競争・罰ゲームなどをさせること。「イッキ飲み」とは一息で飲み干すこと、早飲みと同じ。

酔いつぶし

酔いつぶすことを意図して飲み会を行なうこと。これは傷害行為。ひどいケースでは吐くための袋やバケツ、「つぶれ部屋」を用意する場合もある。

飲めない人への配慮を欠くこと

本人の体質や意向を無視して飲酒を勧める、宴席に酒類以外の飲み物を用意しない、飲めないことをからかったり侮辱する、など。

酔ってからむこと

酔ってからむこと、悪ふざけ、暴言・暴力、セクハラ、騒音や嘔吐、その他のひんしゅく行為。

 最後にひとつだけ。
 我らの「酒に飲めない遺伝子」は、洪積世の氷河期に、アジア大陸の北部で「寒冷地適応」型に進化して生まれたはずである。酒に弱いことが本当に進化だろうか。
  酔っぱらって暴れたりしない。どこでも寝てしまうという愚挙は決してない。アル中にもならない。やけ酒は飲まない。コメをそのまま食べるだけで満足だから、穀物の利用率が高い。
 生まれてから1万数千年。この進化に意味はあったか?

<関連ページ案内>

目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるT 「現代日本人のルーツ」
目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるU 「酒に強い人弱い人」
目から鱗 日本人のアイデンティティを考えるU 「酒に強い人弱い人」の東西分布
「クイズ日本史原始〜古墳時代編」005・・あなたの縄文人度・弥生人度をテストします
「現物教材リスト」へ・・・酒に弱いかどうかをテストするアルコールパッチテストの教材  
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 04 女、妻、母T 怪獣より強い 01/06/16  

 僕と同じ分野の、教育に関する授業研究・素材・学級通信・日常生活などを記載したサイトは、それこそ星の数ほどはある。
 諸先輩の力作サイトに少しずつおじゃまして勉強させていただいているが、少しの経験でも、はっきり言えることがひとつある。
 自分の日常生活も含めた「教師の本音」的分野のサイトは、女性教師の独壇場であるという事実である。
 私も含めて男性軍のそれと比べれば、痛快、面白い、きわどい、共感的、どれをとっても、秀逸である。
 自分なりに理由を考えた。
 いろいろあるが、最大のものは、彼女たちはおおむね、外(学校)で児童生徒と奮闘し、また帰って、内(家庭)で夫や子どもその他と奮闘しており、その大地に根ざした生活感覚は、よい方向に噴出すれば、ものすごい魅力的なエネルギーと優しさとなるからであろう。

 昔、妻が彼女の友人と電話で話しているのを聞いたことがある。子どもの数の話題である。
妻「うちは7歳を筆頭に男の子ばっかり、3人」(10年前の話)

(・・・)
妻「もう飼育に大変なんだから」
(・・・)

妻「そうそう、そういうことなの。得体のしれない怪獣が4匹もいるの」
(・・・)

夫(こらこら、友達にうそを言うな。子どもは3人だ。)
(・・・)
妻「そうなの、寝ているところなんか見ていると、大きいのから小さいのまで、似たようなやつが4匹転がってるの」
(・・・)

夫(あれ、なに、俺も怪獣か?)
妻「一緒一緒、特に一番大きなやつが始末におえない」
(・・・)
夫(聞かなかったことにして、そっと遠くに行く)

 夫がなんと反論しようと、妻にとっては夫は、子どもと同列かそれ以上にやっかいな存在なのかもしれない。しかも、よせばいいのに、やたら元気で・・・。

 いまから14年ほど前、父親としては忘れられない経験をした。自分が子どもたちにとってどういう存在なのかを、否応なく認識させられた。
 夫婦で教員をやっているが、妻は養護教諭なので、部活動の担当がない。当然、普通の日は、子どもたちにとっては、まず母が帰宅し、遅くなって父が帰ってくるという毎日になる。

 ある日、出張先からそのまま帰ったため、僕が妻より早く帰宅したことがあった。
 自動車を止めて玄関に近づくと中からおばあちゃん(私の母)の声が聞こえてくる。
「ほら、Kちゃん・Yちゃん、良い子にしとったから、もうお母さんが帰ってきたわ。早く玄関にむかえにいきゃー」
 おばあちゃんには、外で車が止まったことしか分からず、その車は当然、いつものとおり先に帰る妻のものと思って、子どもたちに声をかけたのだろう。僕が玄関の前に立つと、3メートルの程の廊下を、ドタ・パタ駆けてくる子どもたちの足音が聞こえる。この時長男Kは2歳半、次男Yは1歳過ぎたばかりである。
 
 父としては、彼らの前でパフォーマンスをすべく、じっとタイミングを待った。
 二人の子どもが、玄関の戸の向こうで、手をつないで並んだところを見計らって、戸を開け、なんだかのポーズとともに、
 「とーちゃんダー」と玄関に飛び込んだ。
 これは受けると思った。「とーちゃん」と喜ぶ子どもの姿を連想した。
 ところがである
 二人の反応はというと・・・・・。

 一瞬、ものすごく驚いた表情をしたあと、複雑な気持ちを表す顔に変わり、ついで失望の表情が・・・・。
 そして、長男が黙って手をひっぱって、二人とも、もといた部屋へ帰っていってしまったのだ。
 ポーズをとった父ちゃんはどうなる。
 いくら、部活動で君たちと接する機会が少ないとはいえ、ちゃんと風呂にも入れているし、おむつも換えているのだぞ。なんだその態度は。といっても始まらない。正直な子どもの心が、父の家庭での立場を雄弁に物語ったのだった。

 母であり妻であり教師であるあなたは、強い。
 幸せな人生だぞ。

 なんだこりゃ。

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 05 リングの貞子を悩ます方法 01/06/23  

 ヒット作が続かない日本映画の中で、若者たちの間でブームとなっているもののひとつに、ホラー映画がある。1990年代後半のブームの火付け役は、ご存じ、鈴木光司原作の「リング」シリーズ。4冊の単行本の販売部数は合計700万部をはるかに越え、映画「リング」以下のシリーズの観客総動員数も400万を越えた。すごい。
 
 映画と小説では、論理の展開等に当然ながら違いがあるので、ここでは、映画の話する。

 山村貞子、貞子は、映像で見る限り、まさしく怖い。映画の冒頭で、「恐怖で死んだ顔」というのが出てきて、最初は、「おい、そんなことがあるのかい」と思った。しかし、後半で、テレビから出てくる貞子のシーンは、極上の怖さで、真田広之があの顔で死んでいくのは、十分納得できた。
 夜中にあんなものが出てきたら、心臓停止は、十分あり得る。

 例によって話は脱線するが、「夜の学校」というのは、これまた別の映画が取り上げているように、真に怖いものである。
 平成8年度は、新しい学校づくりの仕事があったため、真夜中から夜明けまで、一人で徹夜に近い残業をしたことが何度かあった。コンピュータ室で我を忘れて忙しく資料を作っている時はなんともない。しかし、ふと、周囲の静けさに気を配ってしまうと、一瞬のうちに不安になる。時間は決まって、午前2時〜3時頃。


 手をキーボードから放して、ふっと気を緩めた時、広い校舎のどこかから、「ピシッ」とか「パシッ」とか音が聞こえる。自分の耳に聞こえてしまった瞬間、もう、仕事どころではなくなる。
 確かめに行く勇気もないので、こう考えた。
 
 この音は決まった時刻に現れる。丑三つ時になって、気温が下がり、校舎の建築資材のちぢみによって、異音が発生するんじゃないかと。(実は、本当は何かがいるのかもしれない・・・。)
 40歳過ぎたいいおじさんが、鳥肌立てながら、「そうなんだ、あれは幽霊じゃないぞ、自然現象だ。さあ、仕事を続けよう。」と自分で自分に言い聞かすのは、はっきり言って、「情けない」。

 ある日、11時頃、校舎の遠いどこかどころか、コンピュータ室の入り口のドアのあたりで、ほんの小さく、「コツ、コツ」と音がした。キーボードを打つのをやめて、耳を澄ますと、錯覚ではない。もう一度、本当に、「コツ、コツ」と小さな音が聞こえた。
 「来たよ、ついに来ちゃったよ、しかも向こうからお迎えだよ、どーしよー。」

 逃げるわけにも行かず、勇気を振り絞って、戸に近づき、汗ばむ手で引き戸を思い切り引いた。
 多分、何か叫んだかもしれない。そして、少なくとも腰は引け、顔はゆがんでいた。
 
 そこにいたのは、妖怪ではなく、テニス部の女生徒。
 「すみません、明日、試合なんですが、今日は風邪で熱が出て欠席してしまったので、部室にラケットがおいてあります。明日は無理して出場しますので、部室のカギ空けてもらえません。」
 「おまえなー、こんな時間に、なにしとるんじゃ。それから、ドアをノックする時はなー、もっと、しっかりトントンとたたけ、そんな幽霊みたいな、コツコツはやめてくれ。先生はちびりそーだったんだぞ。それからなー・・・・。」言いたいことは、山ほどあったのだぞ。
 でもな、先生は見苦しいことはできないのだ。

 「よーし分かった。鍵を開けてやろう。熱があるのに立派なもんだ。明日の試合、がんばれよ。」
 学校では、真夜中のコンピュータ室でもドラマは起こる。


 さて、貞子である。
 TVから出てくる貞子を一人見ていると、恐怖で死ぬ。
 ではこんな方法どうだろう。

 電話がかかってきたら、TVの後ろに回る。TVから貞子が出てきた瞬間、うしろから、わっと脅かす。
 いや、それでも振り向かれたら、怖そうだから、違う方法にしよう。

 貞子のビデオを見てしまった人は、ダビングして誰かに見せればいい。よーし、そのダビングしたビデオを僕が預かろう。もちろん自分一人では見ないぞ。
 東京ドーム、プロ野球巨人・中日戦の7回表の攻撃の前(グランド清掃中)に、オーロラビジョンかなんだったか、あの、球場のでかいスクリーンで、ビデオを流してしまう。
 
 見てしまった5万5千人の観客はどう対応するだろう。
 ここで、個別の対応はやめてもらって、全員で、「貞子のビデオを見てしまった友の会」かなんかを作って、「集団行動」をとってもらう。もちろん抜け駆けして、ビデオをダビングして見せたりしてはいけない。
 
 さて、運命の1週間後。
 同じ時間に全ての人に東京ドームに集まってもらう。
 そして、恐怖のその時間がくる。
 しかし、これは貞子にとっても、恐怖となる。何しろ相手は、5万5千人なのだから。
 電話が鳴るんですね。
 これは圧巻だぞ。もちろん、家ではないから、みんな携帯だ。一斉にいろんな着メロがなるはず。貞子はどうやって電話するんだろう。一生懸命、念力で、5万5千個のダイヤルをプッシュするんだろうか。ドコモは大儲けだぞ。
 
 いよいよ、貞子登場のシーン。
 みんなが固唾をのんで見守る中、オーロラビジョンのあのでかい画面から、でかい貞子が出てくる。
 みんなで見ているのだから、ちっとも怖くない。
 TV局は、全国へ実況放送するし、そうだ、みんなで手拍子しながら、貞子コールをしよう。
 「貞子、貞子、貞子・・」
 出てきたら、拍手のあと、「貞子音頭」かなんかで盛り上がる。

 こうして、貞子は、「恐怖」に自信を失い、そっと冥界に帰っていくのでした。

 これで、本当に幕を引けるだろうか。

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 06 3枚の写真から 01/07/28  

 高校の教師にとって、生徒諸君に自分の進路や目標を考えさせることは、最重要の目標のひとつである。
 しかし、毎日毎日、「君たちの進路は・・・」と同じことを言っていても、さして効果はない。
 全員が東大に向かって一直線のような「単一スケール型」の進学校なら比較的簡単だが、多様な生徒が多様な進路に向かう学校では、話はますます難しくなる。

 「自分の進路」を考えさせる指導の成功例を紹介しよう。
 以前に、いわゆる進学校にいた時、HR活動のひとつとして、自分の小さい頃の写真をもってきて、グループのみんなにそれを説明をさせ、さらに、みんなが特に感動をうけた生徒の話をクラスの全員の前で紹介する、というのを行った。題して、「1枚の写真から」。

 このHR活動は、ねらい通り次のいくつかの点で大成功だった。

  1. いつもはグループ討議といっても、正直、みんなが興味を持って話し合うことはなかなかできないのだが、これは、全員興味関心で、盛り上がった。小さい頃の写真というのは、男の子も女の子も、現在の実力以上に、それなりに可愛いものだ。中には、ビニールのプールで水遊びする「全裸」の写真(No hair nude 写真)を持ってきた女の子もいて、異常に盛り上がった。

  2. みんなが自分の過去を振り返ったため、自分の原点を確認できた。

  3. 「それぞれの子にそれぞれの過去があった」という当たり前の事実を知ることから、それぞれの生徒の存在をも今まで以上に認めることができるようになった。

 そして、授業から3週間たって、実はそこまでは予想していなかったもう一つの効果があるのに気が付いた。
 このHR活動は、3年生のあるクラスで、11月の下旬に実施した。それから3週間後、冬休みを前にして、最後の保護者懇談会(保護者・生徒・担任の三者懇談)があった。
 受験校の場合は、通常は、どこの大学を受験して、すべり止めはどこで、という話になるのだが、「1枚の写真から」のHRのおかげで、ちょっと様子が違った。

 初日のはじめの方の順番の生徒・保護者の懇談で、女生徒の母親から
「先生、この前この子とアルバムを見ていて、いろいろ昔のことを話したんですよ。そして、進路についてもいろいろ考えました。」と話があった。
「(生徒に向かって)それって、あのHR『1枚の写真から』の時?」
「そうです先生、久しぶりにゆっくり話しました。」

 そうか、なるほど、たいていの家では、保護者が一生懸命作ったアルバムがあって、それから、写真を剥がして持ってきたということは、それを探している時、親子の間でいろいろ会話があったのだ。
 山口百恵(古くて申し訳ありません)の昔のヒット曲、『秋桜(こすもす)』(作詞・作曲はさだまさし)の、「縁側でアルバムを開いては、私の幼い日の思い出を」ではないが、母と娘でいろいろ会話があったのだ。
 
 試しにその後で、男の子にも何人か聞いてみた。
 そしたら、全員ではなかったが、やっぱり、話題になっていた。
 おかげで、どこの大学が偏差値が高いなどと言う実務的な話はどこかへ行ってしまったが、それでも、生徒諸君のいろいろな姿が確認できたという点で、「有意義な進路指導」だった。

 その後赴任した、総合学科の高校では、「産業社会と人間」という、自分の進路を考える授業の中で、やはり同じことを実施した。
 今度の場合は、自分の将来を考えるために、過去を振り返るというねらいを掲げてものだったが、理論がどうこうと難しいことを言うより、その授業のクラスの雰囲気を見れば、やはり、成功だったと判断できる。
 前へ進むためには、やはり、後ろを振り返ることが必要である。

 さて、この項のタイトルは、「3枚の写真から」。
 いままでのは、ほんの前置なのだ。
 話をしたかったのは、自分の子どもたちの、次の3枚の写真なのだ。 
 

 単なる親ばかに少しつきあってくだされ。


 1歳の誕生日で、ケーキのローソクに手を伸ばしてとろうとする長男K.。
 何にでも好奇心を示すきみの特徴がもう現れている。
 この後きみは、デパート・動物園などなど迷子になる名人となった。
 今は高校2年生。
 

 おっとりした明るい顔が得意の次男Y、10ヶ月。
 いつか公衆浴場に連れて行った時、きみが母ちゃんと入った女湯の方が騒がしいので耳をすまして聞いてみた。すると、きみは集団で来ていたどこかの工場の若い女性たちに大人気で、うら若き女性みんなの胸に抱かれていたようだった。
 なんてうらやましい経験をするやつだと思ってしまったぞ。
 

今はもう見かけなくなったお櫃から、しゃもじで直にご飯をむさぼるちゃっかりものの三男D.1歳。
 きみはとにかくいろいろなものを拾ってくる子どもだった。というか、まだ6年生なので、それが継続している。
 それはいいが、ちゃんとしまって置いてくれないと、家の中がもうむちゃくちゃだ。
 


 別の項目で書いたけれど、自分は、長男や次男が生まれた頃は、あまり子煩悩な父親ではなかった。それが、「子どもたちに愛されていないこと自覚事件」をうんだ。
 ※怪獣より強い
   
 それからは、心を切り替えて、子どもたちとの接触の物理的な時間や、子どもたちの心に語りかける時間を増やしたと思う。
 男の子ばかりは、父親にとっては、大変やりやすいものだ。
 しかし、父ちゃんに影響を受けたのはいいが、3人とも学校の得意・不得意科目まですべて、父ちゃんと同じにならなくてもいいだろうに。
 それでも、右の写真の説明にあるように、子どもたちは、1歳やそこらで、もう立派な個性を持っているというのは驚きだ。
 本当に何がなんだか分からないページになってしまった。
 この3枚の写真を選ぶのに、父ちゃんと母ちゃんは30分も相談をしたんだぞ。
 母ちゃんは純粋に懐かしがっていたが、父ちゃんは、君たちのそばに映っているまだ若い母ちゃんの写真に黙って驚いていた。
 母ちゃんにも若くて型くずれしていないチャーミングな頃があったのだ。
 三人も子どもができた理由が分かる気がする。
 
 何だこりゃ!

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 07 男の子は鉄道好きが一番 01/08/26  

 3枚の写真の続きではない。
 「海外情報・旅行記」のところに、パリやロンドンで乗った鉄道の話を書こうとしたら、どうしてもこの話題を一緒に書きたくなった。またまた、ばかな話だが、つきあっていただきたい。  

 ※「パリ・ロンドン旅行記」へ  

 さて、旅と言えば、我が家の男どもにとっては、楽しみは、当然乗り物、とりわけ鉄道である。
 私は、いわゆる鉄道マニアというわけではないが、普通の男以上には、鉄道が大好だ
  小さい頃は、家が国鉄岐阜駅(今のJR)・名古屋鉄道(名鉄電車)新岐阜駅の近くにあった。新岐阜駅からは風向きがいいと、1961年に走り始めた特急電車パノラマカーの独特の警笛が聞こえてくるくらいだった。
 
 祖父母や父母は、年端の行かない私がぐずると、竜田町の踏切端(今はJR線高架事業により存在しない)に行って、電車・列車をみせるのことが、ご機嫌回復の最高の手だてだったと言っていた。
 詳しい記憶はないが、特に蒸気機関車(JR高山線には、1960年代前半まで蒸気機関車が走っていた)は大好きで、駅の東の蒸気機関車庫のそばにあったターンテーブル(方向転換機)のそばで、石炭の臭いを嗅ぎながら飽きることなく、眺めていた記憶がある。
 今は、全線高架となってしまって、思い出させてくれるものは、何もない。

 長じて、大学4年生で就職を決める時、教員採用試験を受けるかたわら、就職浪人をさけるために一般の会社も受験した。それが名古屋鉄道株式会社(名鉄電車)である。
 今でも覚えている。最終段階の重役・社長面接の時のことを。

 定番の質問が発せられた。「あなたは、うちの会社に何故入りたいと思うのか」
 それまでの、課長面接・部長面接の時には、「公共的事業に身を投じることに社会的な意義を感じます。」とか何とか参考書に書いてあるようなことをしゃべってごまかしていたが、社長面接なのだから、精一杯目立つように、本音を、特別な答えをしなければならない。

 「昔、駅のそばで名鉄電車の警笛の音を聞いて育ちました。今でもあのパープーパー・・という音を聞くと、体中の血が踊ります。わくわくできるものを、愛することができるものを自分の仕事にしたいと思います。」
 これで、合格した。
 
 教員採用試験に受かったので、入社辞退になって申し訳ありませんでした。当時の社長さんは今は亡き竹田孝太郎さんでした。 
 教員と電鉄社員とどこが結びつくかって?
 電鉄社員になってやりたかった仕事は、運転手ではなく、列車ダイヤの編成
 教員になって、日本史や世界史を教える一方で、長く、学校全体の時間割編成係を務めた。職は違ってもやりたいことは一緒だ。ちゃんとつながっている(?)
 
 幸い男の子が続々と生まれた。この子たちも鉄道が好きになるように仕向けなければならない。
 まずは定番、プラレール。
 このおもちゃを買ってあげて興奮しない男の子はいないが、その家の当たり前の風景になるかどうかは、父ちゃんが子ども以上に熱中して、いかに数多くの「レールを敷設」するかにかかっている。つくっては片付け、つくっては片づけ、そりゃその努力は大変なもんだった。我が家に一人いる性別の違う生き物が、「掃除、邪魔」と、足蹴にするのを、「子どもたち、怪獣が襲ってきた。」と防ぎつつ・・・。

左: 1959年のわたし、4歳の時。母の証言によれば、伊勢湾台風に襲われた歳の冬の写真だそうだ。
これだけのブリキのおもちゃが現存していれば、プレミアムが付いて、時価ん万円のお宝だ。
 右: 1991年夏、大井川鉄道のSL、C11の前で。


 それから、小さい頃から、旅行はほとんど自動車を使わず鉄道だった。車窓を眺めながら、町を教え、山を教え、渡る川を教えていくのは、自動車でブーと目的地というのといささか違うと思う。

 おかげで、長男・次男は、父に似て、鉄道好きの手堅い子どもたちになった。たぶんわが子たちは、夜中にバイクを乗り回すという愚行には、走らないだろうと思う。ガソリンより、電気。タイヤより鉄の車輪になじんでいるのだから。ん?、その分、冒険野郎の大成功者には成れないか。まあ、いっか。

 一人忘れていた。
 三男の成長期は、僕の仕事が極度に忙しくなっていく時と重なってしまったため、あまり、鉄道大好き人間には育てられなかった。彼は、その分、剣と戦いが好きな少年になってしまった。
 彼の今年の夏休みの「宝物」(うちの小学校は夏休みの自由研究を最近こう呼んでいる)は、なんと、新撰組の隊服と剣づくり。

 やれやれ、今度の日曜日は、京都の壬生にでも連れってやろうか。(これも、父ちゃんの血筋かい?)

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 08 人生に重大な影響?を与えたもの 01/09/16 

また、子育ての話である。

 親が教師をしていると、子どもにはどんな影響が出るのだろうか。
 子どもたちには、親が日本史と養護の教師だからといって、小さい頃からその影響があまりでないように、公平に?育ててきた積もりだった。本は、いろいろな分野のものを読み聞かせ、買い与えた。子どもの興味がのびていきそうな分野は、特定のものに限らず刺激を与えた。
 
 しかし、結果的には、影響はまともに出た。
 ひとつは、行動の面である。
 自分では、学校で生徒に心からそうあってほしいと思って注意していることは、自分の子どもにもそうしてきた。したがって、普通の子どもより、やや堅苦しいまじめな行動の子どもに育った。例をひとつだけあげれば、長男高校2年生には、父との約束で、携帯電話は持たしていない。今時の高校生の中では、奇特な存在ではなかろうか。
 これは、子どもたちには、不幸なことだったかもしれない。

 もうひとつは、やはり、父が英語が好きな歴史(社会)の教員だったことが子どもたちに影響した。(幸か不幸か、母が養護教諭だった影響は、男の子ばかり3人には、まるで現れなかった。)
 公平にしたつもりが、どうしてそうなったか、いろいろ原因はある。
 
 我が家では、妻の希望で結婚以来ずっと、朝食時にはNHKラジオが流れていた。ごく小さい頃はともかく、少し大きくなると、「解説者父ーちゃん」がしゃしゃり出て、しっかり社会科関係事件の解説が始まってしまった。
 前の「男の子は鉄道好きが一番」でも書いたけれど、鉄道に乗っていろいろ説明すると、やはり、社会科の教師の本領が発揮されてしまう。
 
 よくいえば、父とのコミュニケーションが多かったことが、子どもたちに父と同じ分野を好きにさせてしまうことになったのかもしれない。
 とーちゃんは、夏休みの自由研究では、一生懸命、車や船や宇宙探検車や「恐竜動物園」を作ったりしたが、息子たちは、理科系には、それほどは興味を示さない結果となった。

 その中でも、究極の影響が、3男Dの江戸時代好きである。

 これには、またさらに深い訳がある。

 教師にとって、昔の教え子から感謝されることは、この上ない喜びである。自分が指導した授業・部活動・学級経営、何にしても、今から思えば60点ぐらいのできと恥ずかしく思うが、生徒諸君が「感動した」といってくれることは、無上の光栄である。

 平成11年7月に、教え子の女性から一通の手紙をもらった。
 私が実施した江戸時代の授業の中で取り上げたいくつかのテーマの内容と同じ長編のマンガあり、これがとても名作で、是非読んでほしい、今教えている生徒にも紹介してほしい、という内容だった。

 そのマンガが、みなもと太郎著『風雲児たち』(潮出版、第一巻は1982年初版)全30巻である。
 これは、徳川家康の関ヶ原の戦いから、幕末の坂本龍馬の活躍まで、江戸時代の有名人物を、オムニバス風に書き連ねた作品である。
 歴代将軍はもちろん、林子平・間宮林蔵・シーボルト・高山彦九郎・勝小吉(勝海舟の父)・大黒屋光太夫といった、教科書ではほんの一行しか登場しない人物までもが、それはもういきいきと描かれている。
 44歳の大の大人が、30巻全部購入して、一気に読んでしまったという事実だけで、このマンガがいかに面白いか少しは推察してもらえるだろうか。


関ヶ原の戦いと徳川家康


林子平と高山彦九郎


坂本龍馬と姉

普通のコミック屋さんでは手に入れるのは無理。私はすべて、紀伊國屋BOOKWEBを使って、インターネット上で注文した。

 父以上にこのマンガに心酔したのが、三男Dである。
 彼は、4年生から5年生にかけて、どの巻もむさぼるように繰り返して読んだ。その結果、登場人物とストーリーをほとんど覚え、究極の江戸時代通になってしまった。

 「父ちゃん、江戸時代クイズ。江戸時代の人物の中で飛脚より早く走れる人が二人いました。誰と誰でしょう。」
 そんなことは、いくら歴史教師の父ちゃんでも知るはずがない。
 答えは、林子平と間宮林蔵だそうだ。
 もちろん、『風雲児たち』の中での話だろう。しかし、三男Dの人物イメージの中には、その二人は、そのように作られているから、史実がどうのこうのは、いうだけ野暮ってもんだ。その方が、夢があっていいってもんだ。

 彼の江戸時代好きの究極の「成果」が、この夏休みの自由研究、「新撰組の隊服」である。
 母親の指導で、できあがった隊服に、自分で「誠」と墨書して、大喜びだった。
 父ちゃんとしては、男の子が3人もいれば、一人くらいエンジニアになるとかいう子がいても・・・・と思うのだが、我が家からは、今のところ、理科系に進む子どもはいない模様だ。
 人生、それぞれ、先が楽しみというものです。

 ちなみに、マンガ『風雲児たち』を教えてくれた上述の生徒さんは、ラジオかなんかへの投稿と同じように、私に匿名で手紙をくれたため、今だにそれが誰なのか、名前が分かっていない。
 三男Dの人生に大影響を与えつつある、名も知れない女性、「それもまたよしホトトギス」かな。


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